6/17 日記書きすぎ君

今日は祖父と母、きょうだいと私でごはんを食べに行きました。もう、正直に言って書く体力が残っていません…。いや、決して辛かったというわけではありません。本来の意味でのストレスが多かった、ということなんだと思います。自分の中にも色々と気持ちが湧いてきて、一つずつ検討していきたい(昔の私ならそうしてる)ところなんですが、その作業が面倒だし、もう気持ち揺らぎたくないしで、さっさと塗りつぶして早く日常に戻りたいみたいな気持ちでいっぱいです。こういうことってよくあるんですけど、正直良くないですよね。良くないと思います。

 

ごはんはもちろん美味しかったです。天ぷら。特に魚類が美味しくて。衣が軽ーいんですね、それでさくぅ…といって、中の魚身がふわっと。アナゴなんかは身がもちもちしていて、それはそれは最高でした。ヤングコーンは食感が楽しくて、それで粒を噛み続けていると、ほのかに甘味がやってくるんです。美味しい。あと、私、しいたけが苦手なんですけど、ここのは美味しかったです。しいたけのあのイヤーな食感、臭みがなくて、噛み応えよく、もう一つ食べたいレベルでした。えびの足?頭?は、あの香ばしい感じももちろんのこと、中に身が少しだけ残っているのかな。それがとても良かった。最後の天丼もタレの濃さ丁度良く、お米と天ぷらを同時に食べた時の混ざる感じもちょうど良く、超美味しい。終始、私のワンピースのボタンが姿勢を崩すたびに外れるのは頂けませんでしたけど。

最近私はダイエットをしているので、ちゃんと対策していきました。特茶飲んだり、ヨーグルトとかキャベツの千切り食べたり、そもそも昼朝の量を抑えたり。これは結構偉いです。さて、明日の体重がどうなっていることやら。

私、こんなにおいしい!と思ってたのに、全然誰にも伝わってなかった。だって、祖父に美味しいかって聞かれて答えたら、やって○○が美味しいって言ってくれたよって。あーあ、まぁ私が悪いよね。だって、一人ごとでずっと美味しいって言ってるから笑。

 

基本的に私抜きで皆喋ってて、祖父がたまに私に話を振ってくれて、酷い間で返すのが私です。私はロクなこと言えないんですね。そういえば、高校の時、人と話すのを避けてて(話を続けるのが怖かった。プレッシャーだったから。)、早く自分が喋る番を終わらせるような話し方ばっかりしてたな。それがすっかり染みついて、友達作りたいときにどう話せばよいかつい最近まで分かんなかったし。そう、つまり、今日はなるべく終わらせる(無意識に終わらせたいと思ってる感じ)喋り方をしてしまったな。

私だけ輪に入れてないから、私の方向いて喋ってくれなくなるし。

でも話聞かないのもアレだから、話者の方を見るようにはしてたけど、合図地はできなかった。だって、変に合図地うって話振られたり、リアクションしなくちゃいけなくなったら、できないから怖いもん。会話に参加してるけど、存在感は消すってことやってた。

自分から存在消しに行ってるけど、輪に入れてないなーって感じると嫌な気持ちになるのよ。

きょうだいは祖父と超喋って、祖父も楽しかったのか、また今度2人でご飯いくみたい。

私はダメだったみたい。

 

凄く断片的な書き方になっちゃった。

 

お酒の力を借りれば喋れると思ったんだけど、無理だったみたい。いや、前回よりはマシだったかも…??

 

祖父のこと別に嫌いじゃない。好き…?かは分からないけど、身内だし良くしてくれるから大切にしたいなとは思う。私たちといる時間が祖父にとって楽しい時間になったら良いなと思うけど、私にはできない。

うーん、自分の力を過信するならば、祖父と2人きりだったらまたなんか変わるかなと思う。私、まず、物理的距離があると、大きい声出すことや端的に言うことに集中して会話しずらいし、複数人の会話って難しいから苦手だし。2人きりなら…いや、バイト先での振る舞いを考えてみろ。2人きりでの会話、ままなってないじゃーーん。

あと、祖父に気に入られたいなみたいな気持ちもある。正直。金銭的な意味でも。でも、私が小さいころは、親とかが冗談で祖父にこれ奢ってくださいみたいなこと言うのとか嫌いだった。いや、今も嫌いだけど。なんか、金づるみたいな言い方するじゃんって。でも、欲しいものがあることは事実だし、遠慮してたら損するだけだなって。祖母に対してもそう。

一時期、祖母と一緒に出掛けたいときがった。それは、私が何事に対しても遠慮がちだったから。向こうの家ははっきりものを言うタイプで、そういうのが好きみたい。唐揚げ最後の一個遠慮で残ってるが嫌いで、ご飯が出されたら勢いよくなくなっていくのが好きなタイプ。祖母もそういう人だから、祖母といたらこの割と病的な遠慮思考・優柔不断もマシになるかな、なんて、次いでに色々買ってもらいたいななんて…。本当、一時期優柔不断が辛くて、私はデザフェスとかでも結構な確率で「悩まれてますか」と声を掛けられるタイプ。疲れるんですよ。本当。

 

話変わるけど、お店でほぼ初めて梅酒を飲んで、マドラーとか氷とか色々分かんなかったから、母が色々教えよう手伝おうとしてくれたわけですよ。でも、この時分かったんですね。あぁ、こうやって私の失敗回避癖と依存は始まったんだなと。お店で変なことしでかしたくない気持ち、それを回避させてくれる母。母にやってもらえるから色々と覚えない私。ねー。母には自覚なんて絶対ないし、言っても、えーそんなにやってないでしょ、と言われるのがオチ。そう、過保護に自覚なんてないんです。そんなもんです。

関係ないけど、本当最近私の言動が母に似てきたなと感じます。最悪です。なぜならイケてないからです。笑。

一番嫌なのは美大コンプレックスまで一緒になっちゃたところですね。はは。

面白いですね。子供と親が似てくる仕組みっていうのは。もう、逃れようがないというか。

 

うわー、大学四年の間に一回は祖父と2人でなにかしたいなぁ。それまでにいろいろ対策しておかないと。

個人的にこの言動は超成長。祖父と2人で話してみたいけど、私の能力的に無理、でも早くしないと、祖父も高齢だし…私も来年は暇じゃないかもだし…みたいな悩みでうわーっとなって昔だったら諦めて終わるものを、ちゃんと私のいろんなしがらみを考慮した上で具体に現実に落とし込んでいる…。怖い。

いや、まて、そもそも祖父が私と出かけたいかによるぞ??

嫌なんじゃないの…??

だって、私、バイト先で60ぐらいのパートの人と2人きりになるときあるけど、私と話してるの退屈そうだよ…。てか、そもそも同世代の人ともロクに楽しい会話できないのに。げぼー。

てか、自分のこと祖父に聞かれても答えられることないじゃん。大学勉強まともにしてないし、友達いないし、家で動画ばっかり見てるし、。。いや、でも会話って別にパーソナルなこと話さなくてもいいんだっけ。

私のパーソナリティ、自己愛高め対人恐怖傾向(自分でそう思っている)だから、クソだから、なんにも言えることないんだよね。

 

もう何でもいいから声出すところから始めようかななんて…。

 

このまま私が私という体に埋め込まれたまま外に発散されることなくさ。私が体に収まるために身を固く硬く(成分が増えても器の大きさが変わらないから、かたくなるしかない。)していって、何かが入る隙間なんてなくなるかもしれない。

いや、むしろ最近は私の体が私より大きい気もするからな。人と話してると私は萎縮してゆくからさ。

 

そういえば、社会の善悪=自分の中の善悪になって、自分が善の方にいると思って、ものごとを再検討できない大人になるくらいだったら、悪の方にいて、悪と向き合いつつ常に善のあさ探しをし続ける方マシと思ってたな。分かりづらいな。これがさっき1文書くのに1時間くらいかかってた女の表現力だよ。

だから、私は世の中(の何を知ってんだ)であまり良しとされていない承認欲求の在り方だったりとか、自己愛の在り方とか、そういうのを悪として治すことはしないで、手放さないでおけば、常に自己反省的にいられるかなと。自分は社会において善側にいることにあぐらをかかないでいられる。

あー、つまり個人と社会を同化せずに分けておけば、いつでも社会の善悪の是非を客観的に見れるなぁと。個人の善悪は実験的に色々変えてみても面白い。個人の善悪は自由。

あー、久しぶりにこの考え方が脳に戻ってきたなぁ。大1とかの時はよくこんなことばっかり考えてたんだと思うけどね。当時はまだ自分の世界を作りたてだったというか。靖子ちゃんきっかけで自己肯定始める⇒他人・社会との齟齬⇒自分だけの世界を心に作り始める(ここでは何でも思ってよいという自分だけの国。まだ自分が他人と融合している状態ではあったため、これは私にとって禁忌だった。詳細はまたいつか。)⇒(順番分からん)⇒世の中に善悪なのなく、今まで知っていた善悪は社会に押し付けられていたものであり、個人の中ではどう思ってもよい。というか、真実はしるためには社会の善悪に取り込まれてはならない。可塑的であれ。的な。なんか色々。

 

あとその流れとして、

人間は孤独であることを知る⇒今まで融合していたため、人間は孤独だと知り弱る。(誰からも見られてない見られることがない、孤独すぎる、保証がない、自由等色々な不安。)=外の目が見えるとかほざく(融合していたのが自覚された。自分と他者が分離~。比較の目とも言ってたような。多分、孤独になると比較されなくなるからだと。以前は常に比較の対象だったから。というか、そういう基準で動いていたというか。こうすべきとか。難しい。詳細プリーズ)⇒

 

あと、靖子ちゃん自己肯定して、孤独知る前くらいのときのこと。私は自己否定非難することが正しいことだと思っていて(成長のため。他者と比較して自分は駄目なんだから、勝ちたいならそこで自分を肯定したら駄目だろと。事実を受け止めないと、という。)、反対に認めるのは私のポリシー的に駄目だと思っていたから、代わりに彼氏みたいな人格とまでは行かないが、妄想に自己肯定というか愛してるよとかいってもらった記録が私の日記にあったような。泣きながらやってたわ。忘れましたわ。

 

あー、あの時は本当苦しかったけど、いろいろやってたなぁ。思いつくままの言葉を書く詩もどきをやってたり。あれは、詩はかくあるべしというのをとっぱらって、自由にやって良いとしたから、当時の私にはそういう本当に良い悪いなく自由に肩の力を抜いて自分の表現をできる場所、心がなかったから、そして文章化する力がなかったからできたことだよ。押し込められていた気持ちを放出するから、あぁいうのができたわけ。画とか文にならない気持ちが思い浮かんで、それを感覚を頼りに似た言葉、関連する言葉を探して書く。

 

今やってみよう。

あの丸い丘を越えていこう

君の命、まあるい頭

せーせーせー

 

なんじゃこれ。今、がっきーのハナミズキPVを思い浮かべながらやってみたんですけど、完全にがっきーの丸いおでこに引っ張られている。

 

うん、でもこの表現の赤ちゃんみたいな方法、皆にもやってみて欲しい。特に学生たち。どうなるんだろう。

 

つまんない人間になっちまったな、と言おうと思ったけど、まだまだ色々してないことあるし、色んな気持ちになれると思うので、頑張ります。

でも、ある程度私という型が決まっちゃったからなぁ。やっぱりつまんないのー。